法廷に姿を現わした宮崎勤の印象は、マニアックな一面を持つ小太りの・オタクとは程遠い、まるで手足をもぎとられた昆虫のように、おとなしいモラトリアム人間でありました。
であるにもかかわらず、オタク論の中心的な人物としてミヤサキが語られる・無邪気な状況が今日まで引き継がれています。
オタクという非・英雄は、マスメデイアの「主役」として脚光を浴びると、時代の「英雄」として華やかな自己(セレブ)をテレビのバラエテイ番組などで演じますが、刑事事件の容疑者として逮捕されると、それまでの自己を退化させて、前身のモラトリアム人間の殻にこもり、自己責任を免れようとするのがドラエモン、いや、ライブドアのホリエモンであり、宮崎勤などのオタクなのではなかったでしょうか。
と、オジヤな書き方をしましたが、このまま続行。
そこに見られる三種の自己とは、つまり、オタクとセレブな自己とモラトリアム人間は、どのような関係にあるのでしょうか?
このような問題がなぜ生じるかというと、「自己確立」論において単体に宿る自己は単一とされてきたものが、実は、単体には三種の自己が宿るとなって、それまでの常識論を蹴破ってしまうからです。
つまり、「自己確立」論において、「不変性と連続性」と考えられていた自己が「易変性と不連続性」を持つ自己ということになり、混乱してくるからです。
ここで、宮崎は飽くまでもオタクであって、セレブでもなければモラトリアム人間でもないと、反論を提示されるかもしれません。
私の記憶によれば、1988年(平成元年)の夏に逮捕、その後に始まった宮崎勤の初期報道は、「鬼畜」という声が大部分の中で、「セレブのおぼちゃま」や「ビデオ収集マニア」や「若奥様のナマ下着なるエロ本を読みふけるスケベーのロリコン野郎」というように、種々のイメージのごっちゃになったもので、セレブに関しては、修業後?に、印刷業を営む宮崎家の家業手伝の身分として入社した際に、集金用にと、200万はするニッサンのラングレー車を母親がぽんと現金で買い、そのまま宮崎にプレゼントしたエピソードが週刊誌で報じられています。
親掛かりの「セレブのおぼちゃま」、孤独なロリコン男の「倒錯のデパート」と揶揄される一方で、大塚孝志らの唱える現代若者論に取り入れられて、(「死体損壊」は、「死後に始まる、対話」という説が支持された関係もあって)収集マニアの宮崎はオタクと定義されたために、明るい宮崎論(どこにでもいるミヤサキ=オタク)が主流を占めるようになったと見ています。
一方の、宮崎のモラトリアム人間ぶりは、4人もの幼女を殺しておいて「(殺されて)喜んでいる」というように、一言も謝罪することがなかったわけで、罪を認めようとしない、欠格ぶりは明らかなはず。
ここで私の言う「モラトリアム人間」は、従来用いられた意義を逸脱するものですが、ですから、この点について、私の考えを書きます。
■学生など、社会に出て一人前の人間となる事を猶予されている状態を指す。心理学者エリク・H・エリクソンによって心理学に導入された概念で、本来は、大人になるために必要で、社会的にも認められた猶予期間を指すが、日本では、小此木啓吾の『モラトリアム人間の時代』(1978年)等の影響で、例えばニートのように社会的に認められた期間を徒過したにもかかわらず猶予を求める状態を指して用いられることが多い。(wikipedia「モラトリアム」)
上の引用に明らかなように、「自己確立」に必要な助走期間をいい、この期間を限りなく延長しているのが親がかりの「モラトリアム人間」であり、ニートです。
これが非英雄の容疑者の態度として現れれば、彼は自己の犯した罪に対して、逃れようとして、無邪気さを装うのが、彼ら囚人型「モラトリアム人間」の共通点です。
ですから、宮崎は個人の罪に帰すべきですが、組織のトップでありながら、犯した罪の主導的役割を拒否する、ホリエモンや煎時津風親方の双津竜関や麻原彰晃なども含まれます。特徴は、出世コースからの離脱を余儀なくされた際の自己防衛反応として、退化した「モラトリアム人間」を演じている点です。
一日でも早くと、罪を認めることを周囲の人が期待しているのに、拘留を無実の「助走期間」と勘違いしている囚人たちです。
こうして残された問題は、「自己確立」論等における自己とは、「不変性と連続性」か、あるいは、「易変性と不連続性」であるかいなかに絞れると思います。
私がイメージするオタクの自己とは、まだまだ卵の彼は、親掛かりのセレブな自己とモラトリアムの自己が同居しており、一方で、オタク的に趣味に没頭している状態です。
自己とは限りなく進化を続けるといえるならば、彼は過渡的に現われる自己です。
助走して巣立とうとしているのが、若鳥といえるならば、若鳥はオタクです。その巣立ちをずるずると引き延ばしているのがモラトリアム人間です。
かかる自己は、モラトリアム状態にある自己を「基地」として内蔵しており、戦闘で翼が傷ついたりすると、帰還して修理する場所でもあります。
やがて、彼はマニアックな趣味をビジネスの活用に成功して、大金を手にして、セレブの仲間入りを果たして、一躍全国区の有名人になります。
ここで問題になるのは、「夢の手段」で功成り遂げた「全国区の有名人」であっても、彼らは本当に「時代の英雄」なのかどうか、ということです。
言い換えますと、彼らはもともとは「非英雄」の「非自己確立」者なのだから、「時代の英雄」と持てはやされても、それは一過的な仮の現象にすぎず、不変性をキープしているのは、「非英雄」の「未確立」の自己ではないかということです。
ですから、それを裏返しますと、彼非英雄がオタクであるならば、その自己は過渡的な、易変性を繰り返す存在といえるはずです。
次に、「連続性」については、オタクの自己は、モラトリアムな自己と頻繁な交代が観察されるものですから、「連続性」については否定せざるをえませんが、「非英雄」の自己としてみれば、彼らなかよしグループで固まった自己は、「連続」しているといえるのではないでしょうか。
ここで、「英雄」論の中の「自己確立」論の提示をやりたいところですが、割愛。
この後の総括はおかしいと思われるかもしれませんが、遅かれ早かれ、次のようになります。
・・・「自己確立」論と「オタク」論は、「英雄」論と「非英雄」論の関係にあるといえるならば、両論は互いに、「相似」的且つ「平行」の関係にあるといえると思います。
(とすれば、両論は、構造論的逸脱論的横断論的関係にあると、いえることになります)
追記■参考は、桜井芳生氏の高論『「若者」の「自己意識」確立のための一考察― 』
URL:http://homepage3.nifty.com/sakuraiyoshio/nakama.htm



