大量殺人を犯す容疑者は、おおむね、アイデンティティ(本体的な自己)に幼少年期の傷(トラウマ)を残しているために、成人になっても、彼が彼として安住する自己を確立することができずにいます。 一方で、彼は自己回復に向けた努力や試みを行いますが、悉く失敗します。この後、彼は古いアイデンティティからの「離陸」を試みたものが他ならぬ「凶行」であり、「大量殺人」ではないかと考えました。
「離陸」とは、「親越え(=恐怖越え)」とセットになった概念で、対の概念が「恩返し」と「自己確立」です。
自らの恐怖心、あるいは、対象を現実的な手段(犯罪)をとおして越えることをいいます。簡単にいえば、広義の「ジャンプ=犯罪]ということです。
この点について、「アイデンティティ」の名づけ親であるエリクソンの「ライフサイクル」を参考にしますと、青年期の「好ましい結果」には「親越え」という言葉は見つかりません。
「当たり前」といわれれば、返す言葉もありませんが、従来の「オタク」論やエリクソンの顧みることのなかった「親越え」が飽くまでもヒントだと思っています。
合法的な「親越え」の例は、親の年収を上回ることができれば、子の恩返しの達成でしょう。
ここで、親が開業医を営むなど、独立している場合、合法的な「親越え」は事実上困難で、ここではじめて、「自己確立とは何か」というように、議論されてくるのではないでしょうか。
これは、神との関係を抜きにしては「自己確立」について語れないことを意味すると思います。
うまく言い表せませんが、それまで永久不滅のものと信じられていた宗教の力が弱まり、個人の側にも信仰する力が弱まるなど、背景に国家的な求心力の衰退があり、一方で、豊かになった中産階級があり、そんな市民の間で自由な空気が浸透してはじめてそれについて語ることができるのではないでしょうか。
ですから、神との対等の関係を個人が目指すものが西洋的な概念としての、ゆるぎない「自己確立」ではないかと。
一方で、個人の自由を規制する力として、古い道徳論に代わって「自己確立」論が生まれた背景等は否めないと思います。
(この例に倣うならば、日本が戦前的な「親、親たらずとも、子、子たるべし」という儒教道徳を押し付けてくるのであれば、反動として、「自分勝手主義」的な自己確立法が生まれてもおかしくはありません。無論、かかる道徳を強制してきた国家的求心力の衰退という時代的背景が必須です)
貧しい階層でのアジア的な「親越え」は、青少年期に働きに出て、稼いだ金で新しい家を建てたり、その家で貧しい親を扶養することにあるとみています(恩返しの達成)。ここでは、自他の境を取り除くような(目立ちすぎる)自己確立は後景に追いやられ、合法的な「親越え」が前景を占めるのではないかと考えています。
エリクソン的なポジの自己確立は、もともと不要な社会であるせいか、老いてからは子に依存するのではないかとみています(恩返しの世代間連鎖)。
この点は、自給自足が可能なアジア的な村落では、親が長老格の場合、息子の「親越え」は絶対的なタブーでしょう。
仮に、タブーが破られるケースがあるとすれば、それは国造りに関わる政治的クーデターですから、彼英雄の誕生は、神話として後世に語る継がれるのはないでしょうか。
私が言いたいのは、古今東西を問わず、「自己確立」とは「英雄」と同義ということです。
国が安定し、平和になり、人々の生活が豊かになり始めますと、政治的な「英雄」が不要となる代わり、多くの市民が非政治的な場所で「英雄」として名乗り始めたり、頭角を著わします。
この小市民的な社会現象をつかまえたのが「自己確立」論であり、非「英雄」の非「自己確立」論が従来の「オタク」論ではなかったかと見ています。
不法行為としての「親越え」とは、血縁関係を断ち切るための想像を絶する恐怖心を伴ったジャンプというように受け取っています。事件を起こすことで、親などの家族の成員にダメージを与えて、怨念を晴らしたり、復讐を果たすことと理解されがちですが、飽くまでも副次的なものと捕らえています。
直接的な「親越え」は、「親殺し」です
間接的な「親越え」が、世に言う「大量殺人」です。
前者では、「親越え」という内的なドラマは、「親越え」という外的なドラマと重なります。
後者では、「親越え」という内的なドラマは、必ずしも「親越え」という外的なドラマとは重なりません。
このままですと、ジレンマに陥るところですが、象徴的な関係が支えになっていると見ています。
地も縁もない通行人の殺害を持って、陸続きの「親殺し」を代表させるというものです。
大量殺人の前に、古いアイデンティティ(本体的な自己)の殺害が行われていると見ています。



