2007年12月30日

銃乱射の馬込政義について

701215a 492.jpgこの事件の詳報は、新聞等に譲り、ここでは簡単な分析を行う。

・散弾銃は、ペニスの代用品。つまり、男根的な犯罪ということ。

・中古のヨットの購入は、「胎内回帰願望」の現われ。
 こういう見方ができるならば、被害者の倉本舞衣さんは、象徴的な「海」的存在。したがって、「プール」とは、大海のミニチュアであり、前者の母神に対して、後者の「娘神」が見えてくる。
 仮に、「黒ミサ」を語っていたという同級生の証言が真実であるならば、ここから馬込の信仰(神人一体ゆえの)が読み解けそうな気がする。

・宅間守を例に挙げるならば、(度を越す)凶悪事件の犯人は、それまでに幾度となく人生のリセットを試み、不当な介入の有無に関係なく、その挫折の結果として、最後には、退路を塞ぐように暴走の道を歩み出す。

・10人ともいわれる同級生の「プール」への招待は、「殺人」を劇として「公開」型に転換させる仕掛けを隠している。
 この意味では、佐世保の銃乱射事件は篭城事件に通う。

 仮に、同級生が事件後に動員される報道機関の身代わりだとすれば、次のような疑念に襲われる。

 A なぜ藤本さんは、殺害されたのか?
 B 何千発も弾を用意しながら、なぜ「プール」で人質を取り、立て籠もらなかったのか?

 あえて私の考えを言えば、馬込にははじめから社会正義を訴えるほどの自己主張が欠落していたことと、「報道機関」の殺害の意味であろうか。
 とすると、弾の意味が「過剰」なものとして、あふれてくるが、もともと過剰性こそ凶悪犯罪の特徴ではなかったか。

・身長180センチの犯人は、体育会系の犯罪的特徴を有す。つまり、筋肉の論理に酔いやすく、その多くは絞殺である。

・親掛かりの銃マニアという点で、馬込はミヤサキと似通う。

・実を言うと、年賀状の書きかけで、それどころではない?
posted by 9組の秋六 at 06:26| 福岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月27日

糖尿病への疑問 神経障害とは何か?

 糖尿病に関しては、色々と疑問に思っている事柄あります。
 第一に取り上げたいのは、「糖尿病性神経障害」。
 病院を訪れ、足が痛いと訴えると、血液検査と尿検査をすると、きまって糖尿病と診断されるわけですが、訴えに応じて医者はシップ薬や血栓の改善薬をくれます。

 なんでもない・当たり前の光景のようですが、やはり患者としての私はおかしいと思ってしまいます。というのは、神経障害を血行障害と取り違えての対応と考えられるからです。

 これまで糖尿病についてネットで検索してみたところ、血栓などの「血行障害」の論述は見当たらず、次のように「糖尿病性神経障害」オンリーの状況です。

>比較的早期から出現し、小径の自律神経から感覚神経へと障害が進展する(ICD-10:E10.4、E11.4、等)。細胞毒としての多発神経障害のほか、栄養血管の閉塞から多発単神経障害の形も同時に取る。自律神経障害としては胃腸障害(便秘/下痢)、発汗障害、起立性低血圧、インポテンツ等。感覚神経障害としては末梢のしびれ、神経痛等である。多発単神経障害としては、一時的な黒内障もみられる。不思議なことに、末梢神経障害は糖尿病にかかっている時間の長さとは相関しない。自律神経障害は、相関する。胃腸障害は、現時点での血糖値に影響されるため、やはり相関しない。(「糖尿病性神経障害」ウイクペデイア)

 糖尿病とは、血糖値の高さから来る血液の病気であるにもかかわらず、「神経障害」の病気として記述されるのは、紛れもないネジレであり、このネジレこそが糖尿病を難治性の高い病気としている主たる原因ではないのでしょうか。
 明らかなことは、医療の現場の先生が「血管」と「神経」を混同していることです。

 他には、多尿と同時に「口喝」を記述するわけですが、こういう症状が出る場合、どうすればいいかの記述が見当たりません。
 利尿効果のあるタバコやコーヒーとの関連もあり、あるいは、塩分の取りすぎ。こうして(特に、腸内の)水分不足の結果、糖尿病患者に関係なく便秘症状を呈することになります。

 運動療法に関しても、歩行に難のある患者の困難さの分析がないまま、できる患者とできない患者というような線引きが敷かれているような状況があります。

 以上、急いで書きましたから、書き直しもあります。
posted by 9組の秋六 at 04:58| 福岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月24日

糖尿病による足痛が消え、歩行が楽に

 投稿をしばらくさぼっていて、いざ再開しょうとすると、恥ずかしい気持ちなどが先に立って億劫になりますが、気にしない気にしないと自分に言い聞かせながら書くつもりでいます。

 色々と書きたいことはあります。所詮は生きている限り、あなたも私も新聞記者みたいに取材最前線に立って生きているわけでありますから、この辺からの説き起こし(一歩先ん出ているかどうかは、別の話?)は皆様同様可能であるはずです。

 個人的に関心を持っている話題は、佐世保の銃乱射事件の馬込政義容疑者に労働派遣会社のグッドウィルの派遣事業の停止命令など。

 今日に関しては、糖尿病について書こうと思っています。
 糖尿病とは、ご存知のように、摂取した糖質がブドウ糖に変換されずに血液の中に留まる病気です この変換にはインシュリンというホルモンが関係していますが、糖分のとりすぎ等の関係からインシュリンの分泌が少なくなり血糖値の高い患者を糖尿病患者といいます。
 治療法としては、食事療法や運動療法インシュリンの投与等の薬物療法の3種の方法が確立していますが、治るどころか、足の切断や失明や人口透析という三大合併症が待ち構えている、恐ろしい生活習慣病です。
 それだけではなく医原病の可能性もあります。

 私の場合は、昨年位から足の痛みをずっと引きずっていて、このまま行くと「足の切断」かと漠然と将来の不安を読んでいました。
 顕著な症状は、太ももの筋肉痛です。歩くにしてもぎごちないもので、小石を踏んだだけで足の甲がくんと横向きになり、足首をひねりそうになります。
 医者にこの点を相談しても、納得の行く説明をしてくれません。薬での対応をすすめるだけですから、先はインシュリンなどの薬物依存が見えています。

 ですから足の筋肉痛に関しては、自分で分析する必要にかられました。
 この結果、足の筋肉の動員がスムーズでないことからくる負担を太ももが背負っているための筋肉痛ではないかと考えるようになりました。
 これはあくまでも仮の症状で、本当の筋肉痛の原因は、「鈍感」なふくらはぎの筋肉が働いていないからだろうと考えました。
 東洋医学的に言うと、太ももの陽性症状に対して、ふくらはぎの陰性症状というねじれが関係していると見たわけです。つまり、太ももの筋肉に顕われた緊張の痛みは実はふくらはぎの筋肉の緩みに関係していると見たわけです。

 そうしているうちに足の親指の力がなくなっていました。これを自覚したのはスリッパを履いたときです。
 スリッパを履いて歩き出すと、すぐに脱げてしまうのです。
 他の人は苦もなくスリッパを履いて歩けるのに、自分にできないのはなぜかと考えてみて、たどり着いた結論が足の親指の力がなえているからというものです。つまり、人はスリッパを履くと足の裏と足の親指を心持ち突き立てることで、スリッパそのものを持ち上げる感じで履いたまま歩くできるのに対し、自分ができないでいるのは、足の親指の力がなえ、持ち上げるだけの力がないことから履いて歩くと脱げてしまうのではないかと思ったのです。

 これは今年の7月で、職業訓練所で自覚しました。それまでの足先の症状の自覚といえば、じんじんとしたあいまいな痛みです。しびれといいますか、足の甲を襲うじんじんといった感じにずっと悩まされていました。
 しびれだけでなく、皮膚のつやもなく、血の気もうせていました。

 このように糖尿病から来る症状というのは、筋肉の緩みからの力の衰えにあると思っているわけですが、痛みがないため、痛みのあるところに気を取られて治療するために手遅れになるケースが少なからずあるのではないでしようか。

 転機となったのは、そのころから始めだした塩分過多の食事療法です。
 カロリ-制限食は意味がない、というのは、それまでに幾度となく失業状態から抜け出せず食えない期間があったにもかかわらず、糖尿病の改善には結びつかなかったからです。
 糖尿病は食べ過ぎの問題ではないとすれば、残るはナトリウムの摂取の問題ではないか、と。

 カロリー計算して糖尿病の改善につながるというのは、理屈の上では間違っていなくても、その前に燃え尽きてしまう糖尿患者が多いというのは、NHKのクローズアップ現代の特番でも取り上げていましたが、治るのではなく、狂わせる治療法といってもいいのではないでしようか。

 私自身は塩分過多の食事療法をやることで、体質の改善につながり、今では普通に歩けるようになりました。
 丁度半年間をかけたことになります。
 
 現在血糖値がどれ位か分かりませんが、腎機能が正常であれば、数値に拘るよりも前に粗塩の摂取を心がけてこそ糖尿病の改善につながると考えています。

 メンタル面では、糖尿病患者特有の「幸せ漬け」の生活、特に、意識を加えた両面改革が必要?


追記
■糖尿病患者の訴える筋肉痛に対応できない内科医や外科医の存在が問題。
 彼らは一様に、薬での対応を口にする。これは薬物依存の患者を生むだけの結果につながりやすい。
 昔の糖尿病患者の食事のメニューは、糖質の摂取を制限して高たんぱく高カロリーの肉食をすすめるものであった。
 今は、キャベツ?
 個人的には、菜食よりは魚などを摂取した方が体には楽という感触を持っている。
 ねぎや海藻類や酢物は、血液の改善にか欠かせない食べ物?
 ・・・エトセトラ。
posted by 9組の秋六 at 14:35| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月10日

ザ・禁止F

第七章 母おりんの殺害

 退院はしましても、検便だけは引き続き行っておりました。週に一度、そのための保健所の人がやってきました。
 男が来ると、おりんはぼくを玄関の部屋まで呼び寄せ、指示に従って、ぼくは渋々とズボンを脱ぎ、四つんばいになって、尻を男に向けました。すると、男は肛門にガラスの棒のようなものを入れてきました。
 これはこれは、屈辱的ともいえる服従のポーズの上になんと酷いことを!と、ぼくは心の中で泣いておったのでございます。

 ある日のこと、おりんは男に対して、二、三の質問をしておりました。
 男が去ると、すぐにそれまでの愛想のいい顔がメッという、猿のような顔に一変したのでございます。
「お前の捻りだすうんこには、まだセキリのばい菌がついとるちゅうよ。それやから、うんこをしてはいかんと。ええな、完全に治るまで、うちのはばかりを使うてはならん」
 と、おりんの凄みの利いた言葉を、ぼくの耳は確かに聞き取ったのでございます。

 おりんは南国育ち特有の黒目がちの瞳をもった美しい女性でしたが、母というにはあまりに小粒でございました。
 就学する前の年はそれこそ毎日のように、『白雪姫』に登場する鬼母のような質問で、ぼくを苦しめていたのでございます。
「スエハルよ、スエハル、この広い世界のなかで、お前が一番好きちゅうオナゴは誰じゃ?」
 その時のおりんはいつも片手に、ぼくの好物の「大福焼き」を握りしめておりますので、迷わずに「お母様です」と答えておりました。
 すると、ご褒美として、ボリュームのある饅頭をくれるのでございます。しかし、これには白粉花に似た強い臭いが染み付いてございましたので、隠れては鼻をつかみながら食べておりました。
 ところが、ある日のこと、同じ質問に対して、いつものように同じ答えを用意しましたところ、
「ホンマかえ?」
 と、聞き返してきたのでございます。
 その時のおりんの顔の表情が、これまた一段とやさしさに満ちあふれておりましたので、今日ばかしは、本当のことを申し上げても許してくれるのだなと思いまして、
「本当は、美和姉ちゃんです」
 と、口をすべらせたのでございます。

 これ以後、三時のおやつは召し上げられたのでございます。
 ですから、おりんの留守をねらって、毎日のようにおやつ探しが自分に課せられたのでございます。

 あれから一週間もすぎた、午後のことだったでございましょうか。
 虫捕りの最中に、突然便意を催してきましたので、家に戻ろうと思いました。しかし、途中で、うちの便所を使うてはならん、というおりんの言葉を思い出して、道中の草むらで用を足したのでございます。
 見ると、便は相撲草を虐げて、幾重にもとぐろを巻いて、うず高く盛り上がっております。太さといい色といい、それはそれは物の見事なバナナうんこの天こ盛でございました。
 しかし、その時のぼくはうっとりと見惚れるどころか、うんこは汚いというはじめての観念に襲われたのでございます。白日の下に露わになった、巨大な大便の醜怪さに気圧されたのかもしれません。
 次の瞬間には、逃走を始めておりました。他人に見られたときのことを思いますと、俄然恐怖心が募ってきたからでございます。
 このあと、謙介がどうやってぼくの便秘を見抜いたかは、理解不能でございます。

 夏休みに入った、ある日の夕食後、謙介はぼくの肛門にいちじくの汁を注入すると、厩まで抱きかかえていきました。便がするすると出ました。
 謙介のこの措置によって、禁止の解かれたことを知りました。

 それでも美和には、こう訊いてみずにはおられませんでした。
「もう、ぼくは、うんこしていいの?」
 美和ははじめ、半信半疑の顔をしておりました。
「そんなこと当たり前じゃない。だれもしてはいけないなんて、言わないわよね。だって、そうでしょう」と、言い終えるや、一瞬悲しげな表情を浮かべました。「それとも誰かから、してはいけない、って言われたの?」
 ぼくはおそるおそる、おりんの名前を口にしました。
 すると美和は、すべてを悟ったように、次の瞬間には、目に泪をいっぱいためて、おりんに抗議をはじめましたのでございます。

 しかし、美和の抗議は、空振りに終わったのでございます。といいますのは、第一は、うんこをしてはいけないという禁止が、常識では考えられない話であるからでございます。次に、話が事実だとしましても、禁止はあくまでも限定的なものでございますから、実効的な意味は薄いということでございました。つまり、野グソならしてもいいというように、抜け道が到る所に用意されているわけでございます。最後に、証言者としてのぼくの言葉が、はなはだ信憑性に欠ける点でございます。

 特に、最後の点について、おりんは特別の言葉を割いて雄弁でございました。まずぼくを名指ししつつ、何事も聞き分けのできない、できの悪い子供と断言したのでございます。その証拠として、通信簿の成績をあげました。といいますのは、体育と図画工作を除いては、ほかの科目は、オール1の評価だったからでございます。
 結局のところ、おりんの言い分とは、こういうことではなかったでしょうか。

 禁止を敷いたところ、抜け道を見出す小賢しい知恵が働くのならば、同じように信じがたい禁止にも抜け道を見つけることができたはずだ。仮に、それを見つけきらずに吾の敷いた禁止を守ったとすれば、それこそどうにも救いようのないバカ息子となろう。

 それからは、事あるごとに、「スエハルは、オツムがわるいから、二年生にはなれないよ」という、勝ち鬨にも似た、おりんの嘲りの言葉を聞かされたのでございます。


 それから十年後の高一の初冬のことでございます。ぼくは金属バットを使っておりんを撲り殺したのでございます。完全犯罪でございます。
 浴室で死体を解体し、肉はミキサーにかけてジュースにし、山奥の岩場の下にある伏流水に流したのでございます。同じように、骨は粉末にして、壁材のセメント袋の中に混入し、遠くの護岸工事現場の捨てコンのそばに、水を混ぜて投げ棄てたのでございます。
 警察は、真っ先にぼくを疑いましたが、シラを通しました。やがて、おりんにはふしだら面もございましたことから、行きずりの愛人の男と駆け落ちしたということで、決着したようでございます。
 浴室から出た血液反応に関しては、その年の晩秋におりんが堕胎した際に流した血だと言い張りました。実際、その手術を行った無免許の男の証言が取れましたので、ぼくは白として釈放されたのでございます。
 ちなみに、祐子は不倫関係にあった愛人の男との間に生まれた、おりんの子供でございます。


 その後のぼくは、命の恩人である謙介と二人ながらの、幸せな人生を送ったのでございます。
 祐子はスエハルがおりんを殺したと近所に言いふらしておりましたが、やがて恋人を見つけると家を出てしまいました。
 美和は、二人の子供を持つ母親として、幸せな家庭生活を送っております。

(完)

*登場人物も物語もすべて、フィクションです。

平成八年九月六日脱稿
平成十三年八月二十六日改稿
平成十九年三月二十五日改稿



■目次 
第一章 タブー越え
第二章 「台所」という場所
第三章 「硬いうんこ」と「やわらかいうんこ」
第四章 「記憶」という復讐用の玩具
第五章 「妹」という受動的存在者
第六章 内なるモンスター
第七章 母おりんの殺害
posted by 9組の秋六 at 03:48| 福岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月09日

ザ・禁止E

第六章 内なるモンスター

 家に帰ると、年子の祐子が出迎えてくれました。そして、すぐにその間に起きた大変な出来事を話してくれました。
 白い衛生服を着た保健所の人がやってきて、便所をはじめとして台所や風呂場や溝の中など家の内外を消毒して回り、その消毒臭がいつまでも残って臭かったことや、衣類や畳や蒲団や食器などの日干しで、毎日てんやわんやであった、と。

 ならば、家の中はひっくり返ったも同然だなと思って、あがりこんでみますと、入院する前と全然といっていいほど変わっておりません。飯台をはじめ、箪笥もミシンも机はいうに及ばず、押入れの中さえ同じ物が同じ場所に置いてございました。

 唯一変わったと申し上げられるのは、家の中の柱に、縦長の紙が何枚か貼ってあるぐらいのことでございます。
 紙には、文字が印刷されておりました。
「なんちい、書いてあるん?」
 と、祐子に尋ねてみました。
 ろくろく読み書きさえできないでいるぼくと違って、祐子は国語が得意科目でございます。
「《エキリで死ぬ子、毎年○千人》と書いてあるんよ」と、すらすらと読んで聞かせてくれました。そのあと、すぐに言葉をついで、「スエちゃんも、もう少しで死ぬところだつたんよ」
 その声は、心なしか弾んでいるように、ぼくの耳には聞こえました。
 縦長の紙はいくつか種類があり、色で識別できました。玄関からすぐの部屋にあるエキリのポスターは、水色でございました。
 祐子は、ほかの縦長の紙の言葉も読んで聞かせてくれました。

 客間にある赤色の紙は、「喉が渇いても、生水はのむな」
 お茶の間の緑色の紙は、「外から帰ってきたら、塩水でうがいをしましょう」
 台所の黄色い紙は、「食事の前には、手をきれいに洗いましょう」

 エキリ以外の紙の言葉は、ぼくの耳にもありきたりの言葉に聞こえました。
 ぼくの病気は、何度も申し上げるように、セキリでございます。エキリの方は別名「ハヤテ」と言って、発病するとすぐに死んでしまう恐ろしい病気と聞いておりましたから、勝手にエキリは死んでしまうけれど、セキリは死なない病気と分けておりました。ですから、「ぼくの死」という祐子の言葉が俄かには信じがたく思ったのでございます。

 死に近い病気というのを、知っておりました。それは意識をまるごとさらっていくもので、あっちへ連れ去ったかと思うと、こっちへ連れ戻したりする病気でございます。だから、死とは、身体を置き去りにしたまま、意識だけを連れ去っていくものだと思っておりました。
 そんな病気と比べてみますと、セキリの症状は、軽いほうでございました。意識はちゃんと身体にくっついておりましたし、その身体もにわかに萎えていく衰弱感には見舞われなかったのでございます。病院のソファに腰掛けているときにおそった睡魔は、ぼくの意識が支えきれぬほどの・重い・捻りつぶすような眠りではございましたけれど、そこにはさらっていく死の影はどこにも潜んではございませんでした。

 実を申し上げますと、謙介は長男の冬彦をエキリで亡くしております。ですから、ぼくが生きてあるということは、取りも直さず、彼の死によってぼくの生の土台が築かれていたことを意味します。この厳然たる事実を裏返しますと、彼の死がなければ、ぼくが死ぬ羽目になった可能性も否定できませんから、その時は、ぼくの死が次に生まれてくる彼のための、生の土台となったかもしれません。

 退院後の生活は、「紙」に書かれてあるような予防と禁止で、がんじがらめに縛られたのでございます。うがいと手洗いがやかましく言われ、生水を飲むことやびわの実を食べることは、かたく禁じられたのでございます。

 入院する前々のこと、一度だけお寺の境内で成っているびわの実を水洗いしてから食べたことがございます。
 「水洗い」と申し上げましても、流しの上に置いたアルミの容器にびわの実を入れて、水道水を溜め込み、二、三度手でかき回して水を切っておシマイといった、いたって簡便な方法でございましたが、ぼくにしてみれば、動作の一つ一つが新鮮で、これはまるでいい子のお手本だ、と心の中では思っていたのでございます。
 こういうときは、えてして後々のことまで気が回らないものでございます。

 おりんはいつも、ぼくのお昼を水棚の中に用意しますと、帰宅時間を見計らったように、下町へ夕食の献立を買いに出かけるのでございます。
 外から戻り、台所にある勝手口の土間に、びわの食い散らした後を見つけると、腹が立ったことでございましょう。侮辱された、とでも思ったかもしれません。
 すぐさま、ぼくは召し捕らえられ、型どおりの詰問と叱責を受けると、ペンペン、パンパンとぶたれたのでございます。

 おりんのお仕置きを受けた後、「台所」という母の居場所を移して、不衛生極まりない「びわの木」に求めようとしたのかもしれません。護り神をとっかえでもするような、不敵大胆の試みは、結果的に失敗して、ぼくはセキリに罹病したのでございます。
 原因は、熟したびわの実でないことは、後出しになりましたが、セキリに罹患しなかったマコちゃんの例が参考になると思います。仮に、青い果実が原因だとしますと、どうしてぼくの舌先があの強い酸味を通過させたのかがわからないのでございます。
 もしかすると、一口かじっただけで、すぐに吐き戻したのでございましょうか?

 ですが、自身のおぼろな記憶によりますと、あのときのぼくはびわの実の食後に、興奮を鎮静化したような、奇妙な充足感にひたっている風がございました。
 ですから、ムシャムシャと食ったとしか考えられないのでございます。
 ということは、この間の事情を説明するものは、ぼくの心の中で・何かが・ジャンプしたということではないでしょうか。

 あの日、マコちゃんと二人の間で、青い果実を譲り合った時、ぼくはマコちゃんの顔に「軟弱なうんこ」のしるしを見つけたのでございます。においこそ放ちませんが、湯気の立つたほかほかの、やわらかい、足で踏むとすぐにベチャッとなる、あの朝一番に出てくるにこにこ顔のうんこを見たのでございます。その瞬間、ぼくの中には「硬いうんこ」が芽生えたのでございます。これは、その後すぐにも成長をはじめ、瞬く間に、何でも食べてしまう怪獣キンシキラーに変身したのでございます。すると、ぼくの身体はどこもかしこも力に満ち溢れ、世界を見下ろす万能感に酔い痴れておりました。いまやぼくは、世界最強のモンスターとして誕生したのでございます。
 このとき仁王立ちのぼくは、両の拳を天に向かって突き上げ、一度となく振り回したことでございましょう。頭の中はすでに、真っ白でございました。この無敵の勢を駆って、手早く皮を剥くやいなや、ケケケという奇声を発しながら、青い果実に喰らいつき、タブーごと平らげてしまったのでございます。

 おりんがいくら「びわの実を食べてはいけない」と禁じても、それが女の勝手な都合にすぎないことは、とうに見抜いておりました。しかし、「禁止」は、「禁止」でございます。こうして「禁止」が二重三重の意味を持ったとき、ぼくの行動目標は、勢いスリリングなものに変わり、緊張がいやがうえにも高まったのでございましょう。
 ばれさえしなければいいんだ、と。そのためには、おりんの目の届かぬところで、盗んだ果実を食べる必要がありました。しかし、この食行為は、不衛生と隣り合わせでございます。ですが、男らしい勇気を試す最高のチャンスが到来したと思っておりました。空腹の度合いが、拍車をかけておりました。ところが、飢えをいやすと、心に油断が生じたのでございましょう。青い果実をマコちゃんにすすめたのがあだになったのでございます。
 こうして崖っぷちに立たされたとき、ぼくの心の中で化学変化が起きたのでございます。

 地下にもうけた実験室で、怪しい・秘密の溶液を満たしたガラスの容器を加熱すると、中に渾然と溶け合っていた化学物質Aと化学物質Bが熱の力で合成反応を惹き起こし、一個の真の勇者を誕生させたのでございましょう。しかし、タブーとの戦いは、一時的な勝利を勇者の側にもたらしましたが、セキリに罹患するという、惨敗を喫するだけの無残な結果に終わったのでございます。
 換言しますと、超・化学と生物学の間で、異種格闘技が行われたのでございます。

 錬金術サイドは、秘儀めいた怪しい・化学実験を通して誕生させた人造人間モンスターをリングの上に立たせました。対する生物学サイドは、まだ科学的に解明されていない生物兵器「セキリ菌」を注入したびわの実複数個をリングの上に用意したのでございます。
 第一ラウンドは、世界征服を企む不遜なモンスターが楽々制しましたが、第二ラウンドでは、青い果実を口にしたモンスターはセキリ菌の毒素を体内に浴びて、リングの上でKOされたのでございます。
 これをリングサイドで観戦していたびわ軍団は、勝ったあ、と大喜びしたのは申し上げるまでもありません。無論、生物学も・・・。

 以後は、「台所」からも見放され、敗北者に転落したのでございます。
 母おりんの言いつけには、まるで怯えるように、唯々諾々としてしたがう、従順な男の子に成り下がったのでございます。
posted by 9組の秋六 at 05:51| 福岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月08日

ザ・禁止D

第五章 「妹」という受動的存在者

 大林先生は耳の手当てから解放する時、明日が退院の日と告げてくれました。そして、退院したら、耳の病院にガンバって通え、と付け加えたのでございます。

 「ガンバって」とは、はじめて耳にする言葉でございました。何やらキーワードめいて、気になりましたので、病室に戻ると、
「先生(しぇんしぇい)がガンバってとか抜かしてたけんど、なんや?」
 と、美和にたずねてみました。
 すると、折り紙の手を休めて、それはむつかしい質問だ、と呟きながら、考え込むように腕組のポーズをとったのでございます。
 難問だというポーズが、傷つきやすいぼくのプライドを保護してくれたかもしれません。

 この後に行った美和の説明は、ぼくに百倍の元気を授けてくれたのでございます。
「スエちゃんがセキリという病気にかかって治したのは、ペニシリンという薬のおかげなんだけど、それ以上にスエちゃんがガンバったからなの。ということは、どんなにいやな、つらいことにも耐えるということかな。毎日病院に通うことはスエちゃんにとって大変なことなんだけど、ガンバって通えば、耳の病気も治る、って先生はいってくれたのよ」
「うん、ぼくガンバる。バスは好かんけん、歩くう」
 自分の意志の弱さも忘れて、美和の言葉に従順になっておりました。

 一度、一つ年下の子供から「コウズイという言葉を知ってるう?」と、いわゆる「挑戦」を受けたことがあります。
「それぐらい、知ってらあ」と、すぐさま言い返してやりましたのですが、なんせ後が続きません。
 それでも、はぐらかそうとしてあちゃこちゃ話題を変えてみましたが、すべて徒労に終わったのでございます。
 やがて、ぼくの敗勢を見切ったように、その男の子は口を切りました。
「コウズイとは、つゆに、大雨が降って川の水が溢れ出すことをいうんです」

 お寺の子でした。今思えば、読書好きの賢い子供でした。
 それ以来、彼とは疎遠な仲になりました。ぼくにしてみれば、年上の地位を脅かしてくる年下の子供の存在は、許しがたかったからでございます。
 お寺のびわの実を盗むのは、一つは彼に対する復讐の意味もございました。
 就学前の年の、雨季のことでございます。

 夕方になると、新しい入院患者がぼくのいる病室に運ばれてきました。おかっぱ頭の三つか四つぐらいの、とってもラブリーな女の子でございます。
 白雪姫のように、眠っておりました。それもあくる朝になると、眼は開いておりましたが、そのままベッドの上に横たわっておりました。
 女の子には母親が付き添っておりましたが、ひとりきりになると、うつろな眼をぼくに向けたきり、放そうとはしません。
 何かを催促する目でございました。それは、漠とした意味の「関係」というものでございましょう。ですから、それをもとうとして、「言葉」がぼくの内部で走り出そうとしておりました。

 美和から折鶴の作り方を習っておりました。
 用紙は、色紙ではなく、井筒屋や丸物の百貨店のネームの入っている包装紙でございます。当時は、貴重な紙でございます。それをはさみで小さく、真四角に切ったものを使っておりました。
 紙が小さいせいか、ぼくが折ると、くちばしやしっぽの先端がとがらず、あひるみたいな不恰好な折鶴しか作ることができません。

 折鶴にどんな意味があるのか、知っていたわけではございません。ぼくとしては紙飛行機を作って、それに夢を乗せて空に飛ばすほうをはるかに好いておりました。にもかかわらず、女の子特有の遊びに興ずるのは、いうなれば男の子の自家撞着というものでございます。それを知らずにいたことが、「ぼくの悲劇」と申し上げる厚顔な言い分をどうかどうかお許し願いとうございます。

 針に糸を通し、数十羽の折鶴を連ねました。数珠みたいな折鶴をいくつか、女の子のベッドの木枠に飾りつけたとき、ぼくと美和は病室を去りました。
 入院して、七日目ぐらいのことでございます。

 病院からの帰り道にも、謙介はハイヤーを利用しました。
 夏草がぼうぼうと生えた、見知らぬ山郷は、つくづくと暗いと思ったのでございます。周囲の風景が次第に見馴れたものに変わり、ハイヤーが家の近くまで迫ってきたとき、外の光は一段と増しておりました。
 外光の満ち溢れた世界の中にいて、この世に酔うことのない乗り物があることをはじめて知ったのでございます。

「バスに乗ったら、何でもいいからおしゃべりをするのよ。黙っていては、ダメ。とにかくお話をして、酔いのことを忘れるのがコツ。いい。わかった」
 病院からの帰途、バスを利用したある日、美和はバスに乗っても酔わない方法を伝授してくれました。
 バスの中では、幾分気負ってしゃべり始めましたが、中学生の美和にはやはり乗客の視線が気になるようでございました。まるで聞き相手をつとめてくれません。ですから、すぐに種が尽きてしまったのでございます。
 すると、すぐに美和の励ましの、囁くような声をぼくの耳元に届けるのでございます。
「黙っていては、ダメ。何かお話をするのよ」
 こういうとき、歌でも歌っていれば気を紛らわすことができますが、路線バスの中では、二人とも歌を歌う勇気など持ち合わせておりません。
 やがて、ぼくは疲れ果て、黙り込んでしまうと、身体は外部の信号をキャッチする一個の器官と化したのでございます。道路の表面の凸凹を伝えるタイヤのガタゴトという振動と、エンジン系統のグルグルというこきざみの振動とがシートを通して、もろに腰を直撃したのでございます。その衝撃はすぐさま上半身の回路を伝って上りはじめたのでございます。
 すると、むらっとくる、黄色い感覚を伴った、急激な吐き気に襲われたのでございます。ついで、こみ上げてくるものをのどの奥に感じます。ぼくはいてもたまらず、口に手を当てたのでございます。
「バスのなかで吐いちゃ、ダメ。外よ外よ」
 ぼくは車窓から身を乗り出すようにして、吐き出したのでございます。

 次の停留所で下車すると、ぼくと美和は歩きはじめました。
 こういうときの外の空気は、ことのほか、爽やかなものでございます。ですが、ぼくの心の中は、敗北感に打ちひしがれておりました。
 美和との約束を破ったからではございません。衝動に負けて吐いてしまったからでございます。この意味では、おもらしをした女の子と同じでございます。
 呪うべきものを、自分の身体に対して抱いておりました。

 新患の女の子とは、最後まで口をきくことはございませんでした。「異性」というよりは、ぼくより後に生まれきたる「妹」を強く意識しておりました。ですから、恥ずかしい気持ちばかりが先に立ったのではございません。
 ベッドに釘付けの女の子とは、いってみれば、赤ん坊でございます。完全といっていいほどの、受動的な存在者でございます。そのことがぼく自身の立場を危うくしたのでございます。
 ぼくの内部では、「軟弱なうんこ」と「硬いうんこ」がせめぎあっておりました。勝ちをおさめたのは、「軟弱なうんこ」でございます。
 これは表に顕れやすい、ぼくの仮面の意識でしかございません。内部に潜む「硬いうんこ」がいつも出番をうかがっておるのでございます。
 ですから、ぼくの「軟弱なうんこ」は、こう呟くのでございます。

 もしあのときにでも、「硬いうんこ」に化けていられたら、ぼくの言葉は翼となり、受動性の世界から飛び出し、まばゆいほどの光の中で、指揮棒を振り回していたはずだ。男の子でありながら、そういう道を選択しなかったのは、そのままの世界に身を置いているほうがはるかに居心地がいいからなんだ。
 その世界でさえ、女の子の有する「完全さ」には及ばなかった。つまり、ぼくは「妹」に妬いていたのだ。

 反対に、もし、あの時、「硬いうんこ」に化ける機会がございましたならば、そのときのぼくは、確実に、「妹」を裸にし、人形のように虐げたことでございましょう。
posted by 9組の秋六 at 03:44| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月07日

ザ・禁止C

第四章 「記憶」という復讐用の玩具

 うんこへの、一種マニアックなぼくの拘りは、実は、人間を計る物差しとして、重要な意味を持っていたのでございます。つまり、彼は男性、彼は女性というようにいきなり振り分けるのではなく、まず先に、彼は硬いうんこであり、この人はやわらかいうんこというように、識別していたのでございます。
 この二分法におけるぼく自身の位置づけは、断然やわらかいうんこでございます。ですから、硬いうんこへと脱皮を遂げるためには、何が必要かと毎日のように腐心しているわけでございます。
 ほかの少年たちは、易々と硬いうんこへと成長しているのに、なぜぼくだけが約束されたはずの形状に到達できず、いわば「軟便越え」が果たせずにいるのだろうと、心の中でもがいているのでございます。

 反面教師といいますか、この好例を、主治医の大林先生の態度に見ることができました。「軟弱なうんこ」のように迫ってきて、ぼくをしてうす気味悪く思わせたのでございます。
 きっかけは、持病の慢性中耳炎の手当てから生まれたのでございます。
「耳の中がジュクジュクだねえ。このままにしておくと、あふれてきそうだから、ぼくが耳の中を掃除してあげる。お昼にまたくるんだよ」
 と、それでなくても先生は、このうえもなくやさしい神様のような、不思議なオーラを放っておりました。

「反面教師」と書きますと、悪例のヒットラーに対して、いいことを学び・知るきっかけになった人物(ワル)を一般には指すようでございますが、ぼくの場合は、「いい教師」に巡り会えたことで、過去のぼくの心の暗黒部分が照らし出されたという意味の「反面教師」でございます。
 すこおしばかし、ひねっております。

 入院してから数日をえた、朝の診察を終えての午後のことでございます。
 (「数日」と書きましたが、当時のぼくの意識の中では、入院時の「晩期」というほうが適っております)
 大林先生は肘掛け椅子に、ゆったりと腰掛けておりました。傍らの机の上には、耳鼻科の先生ならいつも頭につけている、向日葵の花に似た、中心に覗き穴のある丸い鏡を置いてございました。
 軽々とぼくの体を横向きにしますと、綿棒を耳の中に差し込みながら、世にもやさしい口調で問いかけてきたのでございます。
「ぼくねえ、耳が悪くなったのは、いつう?」
「−−知らない」
 と、ぶっきらぼうに答えました。
 しかし、ぼくは心の中で、おかしなことを聞いてくる先生だなと思っておりました。

 ある夜のこと、怖い夢を見ました。野原の中を歩いていると、穴の中に転落してしまいました。
 穴の底には、無数の蛇がうごめいております。真上には、出口の明かりが見えておりますが、手が届きません。そのうち、横に倒れたままのぼくの体の上を太い蛇が這い出したために、息を殺して死んだふりをしておりました。
 −−と、夢から覚めてみますと、謙介が深い井戸の底を覗きこむかのように、ぼくの顔を息を詰めて見ておりました。

 悪夢にうなされる一方で、熱に侵されていたのでございましょう。ぼくの額には、濡らしたタオルをあてがっておりました。
 眠っている間に、吐きもしたのでございましょう。枕元には空のアルミの洗面器を用意しておりました。

 夜が明けて朝になりまと、謙介の自転車の荷台に乗せられて、病院のはしごをしました。そうして、最後にたどり着いたのが、バスターミナルのすぐ傍にある岩井耳鼻咽喉科の病院でございます。
 待合室の床はワックスを塗っておりましたので、ぴかぴかでございました。スリッパで歩いてみますとすべりやすいので、それをいいことに、ツーとすべって遊ぶかと思いきや、次の瞬間には、吐き戻してしまい、朝に食べたおかゆの飯粒が氷の上のように、パーッと滑ったのでございます・・・。

 急性中耳炎にかかったときのことは、今でも鮮明に覚えております。しかし、それがいつか、となると、判断に苦しました。といいますのは、記憶が地層のように堆積的でなく、かといって、ファイルのように自由に出し入れができなかったからでございます。
 別の言い方をしますと、今日という日を夏とおっしゃられる方もおれば、秋とおっしゃられる方もおりますし、平成八年の八月三十一日とおっしゃられる方もございます。つまり、記憶という映像の一枚一枚には、日付が付いておりません。それでも、時間はかかるかもしれませんが、リクエストの映像を提示するぐらいのことは、記憶の糸を手繰り寄せることによって、自在に操作可能なはずでございます。
 −−あの頃でしたら。

 他方では、幼児の記憶とは、それを有する限り、「宝」という意識に護られておりました。そして、それはなべてハンによって裏打ちされておりましたから、非力である間は、暗い押入れの木箱に仕舞い込また、その日まで使われることのない復讐用の玩具と呼べなくもございません。

 問いそのものがおかしい、とぼくは咄嗟に思いました。といいますのは、大抵の大人は、そんな細かいことまで詮索はしません。過去のことなんかすぐに忘れるものさ、といった調子で子供の記憶力をなめてかかるのが常だったからでございます。
 その点で、先生は違っておりました。子供の記憶力に対して、一目置いている風でございました。
(君の本当の力を視たい−−)
 と、熱い期待で、胸を脹らませているようでございました。

 実際は、網を張ってみただけのことかもしれません。すべての子供に対して、先生はそうやって接触を試みるのでございましょう。
 そうして運悪く網にかかった子供たちは、鳥かごに入れられたカナリヤみたいになって、やがて野性の歌を忘れてしまうのでございましょう。

 この難関(誰しもが人生の最初に出会う一番の難所?)を、ぼくがどうやって切り抜けたかといいますと、それは持ち前の持続力のなさが偶然に奏功したからでございます。鼻炎患者でもございましたから、彼ら特有の鼻づまりゆえの口呼吸の必要から口をあけたままの、呆けた顔をして、次の言葉を待っておりました。
 すると、心はすぐに、蝶のようにあちこちへと飛んでいきます。

 それから吾に返ってみますと、目の前には日常的ともいえる、幸せすぎる光景が繰り出されております。
 見ると、大林先生の顔は向日葵の鏡で顔半分が覆われて、機械人間ミミソウジヤーに化けておりました。すぐ後ろには、若くて美しい看護士がまるで天使のように、笑みを口元に浮かべながら、やわらかい指先で金属の棒にちぎった綿をすばやく丸めておりました。

 診察室の外に眼をやると、パステルカラーのペンキで塗られた木枠の窓ガラスには、午後の光に揺れる、咲き初めのアメリカン・ディゴの花を透かしておりました。
posted by 9組の秋六 at 04:27| 福岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月06日

ザ・禁止B

第三章 硬いのとやわらかいのと

 入院先のベッドの上で、眠りから覚めてみますと、美和がそばに付いておりました。

 この覚醒には、生死の境をさ迷うような危篤状態を脱して、いわば「生還」といった大仰な意味はございません。
 ぼくははじめから生の側に存在しており、一時的に昏睡状態に陥ったとしても、それさえもが「生のまどろみ」状態から目覚めたにすぎないのでございます。

 美和の口から、退院するまで一緒よ、と聞いたとき、それだけで幸せな気持ちで満たされました。見知らぬ土地で家族と離れて暮らす不安や怖さもございましたが、大好きだった美和姉ちゃんと一緒に暮らせることのほうがはるかに、ぼくを喜ばせたのでございます。
 病名についても、彼女の口から「セキリ」と教えられました。
 「その原因として、びわの実が考えられるんだけど、スエちゃんは食べたの?」と、やんわりときいてきたので、「うん、お寺のびわの実を採って食べたあ」と、ぼくは真っ正直に答えました。

 病室には四台ほどのベッドを置いてありましたが、そこでの患者はぼくひとりでございました。
 お三度は、はじめの数日は、「一日に一個のりんごは、医者を遠ざける」と俚言にありますように、医者要らずのりんごのにご汁だけでございました。それが固形に変わると、すぐに銀シャリのおかゆに。

 朝の食後にはきまって、紙にくるんだ「ペニシリン」という薬を服んでおりました。
 はじめこそコップに入れた水を口に含んで流し込んでおりましたが、慣れてくると水なしですますようになりました。要領は、思いきりのばした舌の上に粉末を乗せ、口を閉じた後、唾液をいっぱいに溜めてから飲み込んだのでございます。
 別段渇してもいないのに水をとりますと、水腹になった分、おなかの調子がおかしくなったのでございます。

 入院して両三日は要したでございましょうか、自由に体が動かせるまでに回復したのでございます。
 隔離病棟といいましても山奥にあった兵舎を再利用したものでございます。建物自体は、木造平屋建ての校舎と大した違いはございません。教室にしては狭い、区切られた病室の中に入院患者がおるだけの違いでございます。
 ただ、病室と廊下にある窓は、すべて取り除かれておりました。

 そこがどこであるかは、まったく見当がつかないのでございます。病院の周囲には鉄条網が張り巡らされ、境界付近にはぼくの背丈よりものびた夏草が生い茂り、その先は木々に遮られて、あるのならば遠くにある山の姿を一目みたいと思っても、所詮は叶わぬことでございました。

 ほかの少年の入院患者とは、すぐに親しくなりました。彼らは皆、夏草のように上背がございました。
 少年たちは毎日のように群れを作って、院内を徘徊しておりました。そして、ある部屋に入ると、奇妙なものを見せびらかすのを日課としておりました。
「これが、おれのうんこ」
 と、陳列棚からブリキ製の、如雨露を改造した楕円形の容器を抜き出しては、誇らしげに見せておりました。
 すると、年長の少年の一人が科学者みたいな神妙な顔つきで、と同時に、用心深く鼻翼をひらひらさせながら、容器の内容物に対して批評を試みるのでございます。

 その当時のぼくが、少年の語る言葉をまるまる理解したとは、考えにくいことでございます。ですが、大体の察しはついたのでございます。それは、大便の硬軟の度合いを測ることで、退院までの日数を占うのでございます。

 お好み焼き風のべチャうんこに、とぐろを巻きつつ重みで形が崩れた山なりうんこ。カレー汁の中に一切れの固形が混じるものなど、液状のうんこはどれもこれも色といい形といい、多様性を極めておりました。

 美和にぼくの便のことをたずねますと、東浄に持っていって捨てた、と言ったきり、それ以上のことは語ってくれません。
 少年の群れの中にいて、疎外感に苛まれておりました。この原因がぼくのうんこにあり、群れの一員として認められるためには、「これが、ぼくのうんこ」と言って、現物を見せる必要を痛感しておりました。それができなくて内心焦りを覚えるほどでございました。

 男の子特有の、このとっても大切な気持ちが、美和にはまるで通じないのでございます。無理からぬことでございます。彼女はうんこは汚いものといった固定観念に囚われていたからでございます。
 なおもきこうとすると、「もう、いやあ」といって、耳でもふさぐように遮ってしまうのでございます。

 一方で、朝一番に出したうんこには、何の興味も覚えずにおりました。なぜなら、においを放つ・ぽかぽかの・湯気の放つそれは、別個のうんこだったからでございます。
 ぼくの脳裏に描かれたうんこのイメージとは、下駄箱のような陳列棚に展示されるべき、必要な条件をクリアしたものでございます。もはやにおいを放たず、かつ、冷めはてたものでございます。換言しますと、少年たちの鑑賞に耐えうる、金剛石のように燦然と輝く・神々しいうんこを探し求めていたのでございます。

 少年たちは、うんこの硬度を競い合っておりました。ですから、硬度を保った、キラキラしたうんこでないといけません。朝一番に出したうんことは、いってみれば、「軟弱」にすぎたのでございます。

 一度ならず、ぼくは自分で見つけるしかないと思って探してみましたが、徒労に終わったのでございます。といいますのは、容器に貼ってある「やまえだ・すえはる」という自分の名札の文字が読めなかったからでございます。

posted by 9組の秋六 at 03:38| 福岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月05日

ザ・禁止A

第二章 「台所」という場所

 台所の奥には、竈がすえられ、壁は黒くすすけておりました。四畳の広さの中に、二畳ほどの板張りがあり、端に水棚を置き、床下には薪を蓄えておりました。他に、めぼしい物といえば、消壷と七輪と歯釜と擂り鉢ぐらいなものでございます。

 窓からは、淡い煙の室内に漂う中、朝の光が斜めに差し込んでおりました。
 窓の外には、大人の背丈ほどの崖が迫り、上は往来で、際には養生の笹が繁っておりました。

 「台所」という食空間は、そこに行けば必ず食べ物にありつけるという意味では、母の居場所でございます。すくなくともぼくにおきましては、「場所」が母の原義でございます。
 次に、台所に密にかかわる人物として、生身の母を認知したのでございます。

 あれから一両日がすぎた朝のことでございましょうか。
「スエちゃんったら、どうしたんね。ご飯、食べにこんね」
 と、まだ中学生の上の姉の美和から声がかかりました。

 ご飯の時刻というのは、炊き上がったらしい甘い香が室内に満ちております。だからといって、鼻から伝わる刺激にすぐ反応するのではなく、タイミングを見計らって、飯台のしかるべき位置につきます。
 しかし、その日の朝に関しましては、ぼくは大黒柱に背をあずけたまま座り込み、美和の声が耳にはうつろに響いておりました。
 食欲は無論のこと、気力の抜けた、中心さえ欠落したような、空虚な自分を感じておったのでございます。

 黒塗りの丸い飯台は、食事時になると、台所と接するようにして、父謙介と母おりんの寝起きする四畳半の片隅の、一枚のござの上に置いてございました。食事が済むと、上にあった食器類や箸箱や味の素といった調味料や醤油差しはすべて片付け、ご飯粒や魚の骨は濡れた布巾できれいに拭き取り、浴室に通じる押入れの横の半畳の板の間に立てかけておりました。次に、ござは二つ折にして西側の板敷きまで運び、広げて庭先に食い滓を払い落とすと、丸めて、飯台の脚の上に置く慣わしでございました。
 席は、手前がぼくで、向かいが美和。その間をおりんと下の姉の祐子がむかいあっておりました。謙介は、台所の板床に椅子を置き、いわば距離をおいて食べる慣わしでございました。

 と、謙介がぼくの前に立つと、魚釣りの真似事をはじめたのでございます。
 水棚やたんすの中にしまってある、キャラメルや饅頭を次々にぼくの目の前にぶら下げ、ホレェ、と声を出しては下げておりました。謙介はぼくにたいしてまるで川に棲む魚のように、食いつくかどうかを試しておりました。
 このときぼくは、不思議な体験をしたのでございます。

 たとえば、鹿児島県特産のボンタン飴でございます。この飴の赤くて四角い形を見れば、ぼくの舌先はくるんだ透明のオブラート(?)には戸惑いつつも、溶けた後に出会うジューシーな甘い味を思い出して、次の瞬間には、涎をたらすバブロフの犬に成り下がっておりました。しかし、その日はといいますと、飴を前にしながら、何ら反応しない自分がおりました。ということは、何のイメージもまじえずに、「飴」そのものと対峙していたことになりましよう。

 そのときのぼくは、名前こそ記憶しておりますが、名前以前の、存在の根源ともいえるあるうす暗がりの中で、机の角の放つ鈍い光が氷の刃と見紛うような、不気味な光の反射する世界にいて、知らない物体や人々に囲まれて、言いようのない不安に襲われておりました。


 謙介はその日の勤めを休み、ぼくを連れて開業してまもない官立の総合病院を訪ねたのでございます。
 朝が早いせいか、院内には他に人影はございません。
 診察を終えますと、ぼく一人だけが室の外に出され、待合室の長いすの上で休んでおりました。
 すると、眠り薬でも呑まされたような重い眠気に襲われざま、横になりました。このとき、どこまでも沈んでいくような、ソファのふかぶかとした感触がぼくの頬を襲ったのでございます。

 横になりざま眠りに入ったらしく、たたき起こされてみますと、目の前に謙介が立っておりました。
 すぐに白い便器のあるトイレに連れて行かれました。
 そこでぼくは、謙介に抱きかえられたまま、排泄を済ませました。すると、泥のような便が便器の底に残りました。

 次に眼をさましたのは、ハイヤーの中でございました。ちょうど謙介が絵柄に見覚えのあるぼくの蒲団を自転車の荷台に積んでき、それをトランクの中に押し込もうとしておりました。

 ハイヤーの停まっている場所は、母屋から百米ほど離れた、辺りは薄が繁茂しているだけの、さみしい墓地のそばでございました。人目をはばかったのでございましよう。

 その後のぼくは、どこともしれぬ山奥の隔離病棟へ運び込まれ、入院生活を送るようになったのでございます。
posted by 9組の秋六 at 03:30| 福岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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