2007年08月20日

恐るべき同級生(3) 飯田という生徒

 わたしは、被害に遭わなかった。
「久光君、お願いだから僕の絵にはかけないでね。その代わり、絵の具を使っていいよ」といって、白い絵の具を差し出すような、卑怯な一面があった。
 その一方で、ずる賢さを隠していた。

 もし、そうやって久光がライバルたちの絵を台無しにしてくれると、難を逃れたぼくの絵が上位にランクされるチャンス到来だと思って、リアリズムの一念しかない絵の完成に向けて、気を集中させたことがある。

 絵とは、美を追求する芸術だ。といっても、美は人それぞれである。
 めがねをかけ直す機会があれば、理念の修正も行われたであろうが、私はやはりリアリズムの追求にこだわっていた。
 今にして思う。醜を追求する芸術の道もあったはずだ、と。

 しかし、この時期に、早々に、絵の志を断念させる出来事があった。
 卒業を記念する作品展であったろうか。ビンの持つ、ガラスの透明感が描き切れなくて、リアリズムの追求が不発に終わった私の暗い色調の絵に対して、飯田という生徒の絵は、同じようにビンを描きながら、明るい透明感の描出に成功していたのだ。
 それを見て、その場から逃げ出したくなるような、決定的な敗北感を味わったことがある。

 飯田は絵に対して、言葉では言い表せないような、何か特別の考えを持っていた。
 たとえば、教室の窓から見える皿倉山の緑を、私が調合してこの色だよと、自慢すると、即座に「違う」といって、彼独自のカラーを追い求めるようなところがあった。

 飯田は、中学に進むと、美術部に所属していた。

 今でも絵を描いていると思うが、・・・。
posted by 9組の秋六 at 05:14| 福岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月18日

恐るべき同級生2 久光という生徒

久光は、鳴小から陣中へ。そして、福岡電波に進学した。
 高校時代は、フツーの生徒だった。

 通学の列車の中で、何回か一緒になったことがある。 
 その時に、空手部の赤瀬兄の武勇伝を聞かされた。
 実際の本人は、こつこつと勉強するまじめな生徒であったかもしれない。

 今年の5月に開かれた鳴小の同期会に出席し、一同を驚かせている。というのは、久光はマンション経営を営む不動産王に化けていたからである。

 このニュースは、早くから向かいに住んでいた従弟の口からきいていた。
 信じがたい話であったが、資産家の息子と聞いて、満更うそではないと思っていた。

 資産家といっても、久光家は豪勢な屋敷に住んでいたわけではない。
 平屋建ての切妻造りの家だから、古ぼけた借家住まいかと錯覚してしまう。
 道路に面した南側の10坪ほどの庭には、繁るに任せた一本の柿の木が立っていた。
 お能の舞台装置のような、いたってシンプルな古屋敷に住んでいた。

 家の前を通りがかると、祖父と思しき男が庭に用意した椅子にいつも腰掛けており、定点観測でもするように、往来の人間を眺めていた。

 久光は、8組の不良三羽ガラスのひとりだった。
 5年の休み時間のことであった。
 次の水泳の体育に備えて水着に着替えようとしているTという甘いマスクの女子生徒を、三人組が遠巻きに囲んで、あそこを盗み見ようとしていた。
 Tが体の向きを変えると、三人組は場所を移動するというように、しつこかった。
 ついに音を上げたTが、愛らしい唇を尖らせた。
「先生に、言いつけるけんね」
 すると、久光はひるむどころか、逆手に取った。
「何ちい、ゆうんかあ。オペシャン(担任のあだ名)にお○こを見るんですよ、ちいゆうんかあ」
 というや、がっはははと笑い飛ばした。

 当時の久光の真骨頂を伝える、もうひとつのエピソードも紹介しておこう。

 目立ちたがり屋だった。
 長髪で二重まぶたの、一見はハイカラの生徒だった。が、目は定まらず、濁っていた。
 6年の図画の時間に、写生のモデルに名乗り出た男がなんと色の黒い久光だった。
 休み時間になると、「俺の顔を黒く描きやがって」とか文句を垂れて、女の子などのか弱い生徒の作品を白い絵の具を使って塗りはじめたから、たまらない。

 暴れだすと、手のつけられないところがあった。


追記■久光は、資産家の息子ではなく、兄が大阪での商売で成功して、そのおかげで不動産王等に化けたというのが真相のようです。
 昨年の8月頃は、久光のブログなどありましたが、今は削除している模様。
posted by 9組の秋六 at 01:04| 福岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月11日

恐るべき同級生(1)池田という生徒

同窓会の資料は何かないかと探してみて、やっと見つけ出したのが、N小の卒業アルバムと8組の同窓会名簿。
 名簿は、梶原が旧住所にはいない同級生を電話一本で探り出した上で作成したものだから、その執念と労苦には頭が下がる思いがする。

 その中に、池田といって東北大の大学院に在籍した生徒がいる。
 博士号を取るほどの男がなぜかクラスでは、委員長に推されることはなかった。

 2年の間に、クラス委員を務めたのは、藤原と木下と久保と松尾と林の男子5人と、女子では井手と安藤と梶原の3人である。
 木下は、工専を出て自動車整備会社に入り、24の時に、カナダへ移住した。
 久保は、歯科医大を出て、歯科医になった。
 松尾は芸術家を志して、ドイツに留学し、現代は益子焼きの陶芸作家として活動中で、時折、八幡西区で個展を開いたりしている。
 林は、八幡工業高校を出ると、神奈川の会社に県外就職も3年後にはUターンして、設計専門会社に再就職。現在は、建築士の資格を取って、設計事務所を開いている?
 藤原は、福大商学部を出た後、今は現場監督?

 女子では、安藤は得意のピアノを生かして、ピアノ関連会社に就職。
 梶原は、短大を出て、保母に。24の時に、父親の専務昇格に伴って、東京に引越し。
 井手の住所欄は、空白。
 井手とは、特別の懐かしい思い出がある。
 なんといったか、両足を固定してのあの相撲を取ったとき、後ろにひっくり返してやったことがあったが、尻餅をつく際に、否応ともなく目に入った純白のデカ?パンツが目にまぶしかったな(接風呂具に目を通されたのであれば、すぐに連絡されたし。また、パンツを見たいから相撲をとろうよ!?)。

 教員の藤原と窯業の梶原を除けば、後は皆、旧八幡製鉄に親が勤める「製鉄の子」である。
 8分の6という高確率で、製鉄の子がクラス委員をつとめたのだ。
 そして、彼ら男子は社会人になってからは、医者になったりと親越えを果たしたといえる。
 言い換えると、製鉄の子という恵まれた中産階級は、親越えを可能にする格好の滑走路付のジャンプ台を用意したといえるのではなかろうか。

 池田はどちらというと、目立たない生徒だった。
 家は、鳴水8丁目といって、河頭山(ゴートーヤマ)の反対側の麓に住んでいた。

 ある図画の時間に、前の席の江原という女子生徒の長い髪を写生していたことがある。
 池田の横を通りがかった担任のK教員の目に留まると、すぐにとがめられた。
 すると、池田は、
「きれいな髪だから、描いている」
 と、臆せずに自分の意見を述べた。
 それに対して、K教員は一言、
「いやらしい!」
 と、非職業的な言葉を発した。

 小学生時代に、女性美の探求に熱心だった・色白のfetishismの男が、後年、科学の真理の探求者に変じたのは、ごく自然の成り行きといえようか。
 博士号の持ち主は、そのあと、就職先探しで苦労したか、今はどうしているか、知りたいと思っている。
posted by 9組の秋六 at 13:29| 福岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月10日

「黒崎」という地名について

「黒崎」という地名論(○○


昔、熊本に住んでいた頃、訪ねた先の不動産屋の表札の「○○金喜」という名前を見て、一緒にいた妻と顔を見合わせながら、にゃっと笑ったことがある。

 その時は、あまりに「現金」な名前に度肝を抜かれたわけだが、今思えば、どうってことのない名前というか、道教思想に基づいているわけだから、「金気を喜ぶ」意味と解している。
 「金気」とは、書くまでもなく、陰陽五行のひとつの気で、金太郎や桃太郎のように、力の強い・元気のいい気をいう。つまり、金太郎のように、病の気を弾き飛ばす、元気いっぱいの子どもに育ってほしいという親の願いを織り込んだ名前なのだ。

 一方で、「金気」は「木気」を剋するから、正月には神社に初詣をして、お賽銭を投げ捨てる。これは、金気を捨てることによって、新春とともに訪れる木気を養おうとする呪術的行為と解している。


「末次」という名前がある。文字通り解釈するならば、「末」の「次」は、「はじめ」である。
 このような読み方ができるならば、「松本」とは、「末」と「はじめ」の組み合わせであるから、「末次」と同義的な名前ということができないか。

「末次」という名にかかわりそうな、「終わり」と「始まり」の接点を宇宙論では、「特異点」と呼んでいる。存在するのかしないのか、定かではないが、暦の上では、「一陽来復」、つまり、「陰極まって、陽に転ず」という「冬至」の日を指している。
「末次」や「松本」名は、冬至の到来を祝う(コトホグ)名前といってもいいのではないか。
この系統には、浦本や猪子という名前も含めていいだろう。


「黒崎」という地名に関しては、「畔(クロ)に由来するとして、小高い地形から「黒崎」としたのではないか、という説にであったことがあるが、地名の場合は、多義性を隠しているからまず多様な解釈を行って、絞り込むという手順が必要であろう。
 特に必要なのが、地名に隠された深層的な意識の解読である。
「深層意識」なんて書き出すと、逃げ出したくなる人が大勢と思うから、簡単に言うと、大昔にその土地に住んでいた住民の「恐怖」の意識を読む必要がある、ということである。

 私の考えによれば、その地で暴れる「竜}を鎮めるために被せたものが地名である。
 仮にそうであるとすれば、「黒」は「水気」を意味するから、「水剋火」の理(水は火に勝つ)に基づいて、その地に棲む「火」の竜を退治するために、「黒」という名前をかぶせた可能性が否定できない。

 これは「黒崎」という地名とは直接にはつながらないと思っているが、河頭山の頂には、碑文があり、確か、○○○年に干ばつに襲われたので、雨乞いを○○にたのんで行った・・・という趣旨のことが書いてあった。
 雨乞いの呪術のひとつとして、そのときに、麓の地名を「鳴水」とした可能性もある。

 ついでに書くならば、「河頭山」とは、あの炭鉱王の頭山満の名に敬称「御」をかぶせたものであろう。

註)「河頭山」」は、「ゴートーヤマ」と発音する。幼い頃は、山賊の棲んでいそうな、勇ましい名前だなと思って畏敬の念を持っていたけど、中学の地理の時間に、「河頭山」という漢字をあてがっているのを見て、落胆したことがある。
 河童の禿げ頭というか、皿倉山のつるつるの山頂のイメージ?
 今からでも遅くないから、「強盗山」にしようよ。

 黒崎村の昔は、寒村だった。大陸からの風で乾きやすい土地柄であったことを思えば、たび重なる干ばつに音を上げた住民が、ある日黒崎街道を通りがかった一人旅のお坊さんに頼んで知恵を拝借したところ、雨乞いの呪術を行ったついでに、「黒崎」と地名換えしたのではないか。

 そういえば、「黒崎」という地名を分解すれば、「クロ」と「サキ」だから、これも「末次」や「三浦(水の裏)」に通うかなと・・・。


 毎年のように、冬至の前に襲い掛かる・夕刻にしてははやすぎる漆黒の闇に、ぷるぷると震えているのは、私ぐらいのものだろうか。


追記■黒崎の「黒」を「畔」と解するのは、ひとつの知的な捻りだが、実際は、黒崎という町自体は洪水に見舞われやすい低所に位置しているのだから、「小高い崎」とする地名説は、無理があるのではないか。
 古い地図を持ち出されると困るが、岡田宮のあるところや旧黒崎街道付近は確かに高くなっていたな・・・。

追記2■河頭山の山頂にある碑文をネットで見つけました。下の通りです。


>広場の一段上が河頭山の山頂です。山頂には石碑が八幡西区黒崎の市街地を背景に立っています。
1878(明治11)年黒崎村(八幡西区黒崎)は旱魃による飢饉に見舞われたため、木食(そばくい)上人(源唯行)を招き、河頭山で雨乞いをしていただいたところ、雨が降ったそうです。同じく、1893(明治26)年にも旱魃に見舞われ、その時も上人にお願いし、雨を降らせていただいたので、翌年この記念碑を建てたようです。

>八幡西区藤田1丁目の浄蓮寺の裏手に、木食(そばくい)上人源唯行の墓があり、、「唯行大行者」と彫られています。

HP「八幡のまちかど」「花尾山・河頭山」:http://homepage2.nifty.com/kitaqare/mati10.htm

posted by 9組の秋六 at 01:23| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月09日

いじめについて

                   
いじめとは、何か?

いじめとは何かについて、複雑ではない・よりシンプルな・ミクロの説明原理はないかと模索していましたところ、次のような三つの原則的な考え方(書き換え可能な、便宜的な)に到達しました。

T 依存者とは、会社等の組織や自立した個人(リーダー)の家等に寄生する者をいう。
U 依存者と依存者は、互いに反発しあう(力が互角ならば、殺し合いも辞さなくなる)。
V いじめ(あるいは、殺人)とは、両者の間で起きた、悲劇的な結果をいう。

 上にある「依存者」とは、アルコール依存症やギャンブル依存症等に侵された具体的な病者を指すのではなく、いじめ(あるいは、殺人)が起きたという結果に対して、原因としてのキーワードをいいます。語の規定の上では、多義性を温存しています。

 たとえば、4年前でしたか、アメリカ軍のイラク兵捕虜の虐待が大問題になったことがありますが、そういう場合の「いじめ」の説明として、上にある三原則が利用できるということです。
 このケースでは、自白を強要する手段としての拷問と混同されがちですが、当時の報道に接する限りでは、拷問ではなく、性的に辱める捕虜虐待です。つまり、アメリカ兵は指示依存という病的な状態に陥っており、依存者同士は互いに反発しあうため、それが隠れた動機(無意識的な展開因子)となって、捕虜という依存的立場にあるイラク兵を虐待した、というように説明できるのではないかと思っています。
 説明可能であれば、その後に、では、軍隊内部に蔓延する病的な「指示依存」とは何か、と個々の事例に即してキーワードについて考えればいい、という考え方です。

 三原則といっても、ポイントはあくまでも、Uの「反発」因にあります。

 これまでのいじめの行動を説明する仮説は、Uの点(無意識的な展開因子)を見落としていたため、いじめるタイプの特定や動機などの説明ができず、奇説怪説の氾濫する事態を招いたといえると思います。


 私自身はいじめの問題には個人的な関心を持ち、森島勇樹君虐待死事件(名古屋市昭和区)や大迫雄起君衰弱死事件(大阪市住吉区)を調べてきましたが、それらの出来事に対して、上にある説明原理を採用しても支障はないという結論に達しています。

 たとえば、母子の間で、子殺しという悲惨な結果が起きたとすれば、その母親は「依存者」と規定することができ、頑是無い子供の要求(依存)に対して、反発心が無意識的に作用して、母親自らの良心との内的な闘いを獲て、遂には、ファイナルステージを迎えたと説明できるのではないでしょうか。

 子殺しを防止する対策は、書くまでもなく、母親の精神的な「自立」以外にありません。
posted by 9組の秋六 at 06:50| 福岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月08日

出っ歯

出っ歯でないのに
「出っ歯」と笑われる
ひとりの同級生がいた

彼は冬の日も
靴下を買う金がなくて
裸足でいたから






■追記

「出っ歯」と書けば、駅伝大会で活躍していた、長身の岩見を思い出す。

 如才ない男で、英語が得意だったな。

 体育の時間に、学校の外側を一周するマラソンが課され、幸先のいいスタートを切った私は、裏の地獄坂を制した勢いをキープしたまま、トップで校門を潜り抜け、ゴールめがけてグラウンドを走っていたら、最後にはスライド走法の岩見に抜かれてしまった(T▲T。

 あれさえなければ、駅伝大会のスターを目指していたかも?
posted by 9組の秋六 at 12:40| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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